ケースとは
ケースとは?
「ケース」とは1921年にハーバードビジネススクールで誕生した、実際の出来事に関する記述物です。教科書や理論書などには抽象度の高い概念、理論、フレームワークが記述されるのに対して、ケースには「ある固有の状況下で実際に起こっている具体的な出来事」が事実としてそのまま記述されます。このような事例記述物を「教材」とすることで、学習活動は実践的な方向に向かいます。
MBA(経営学修士)とは何か?で紹介されているように、多くのMBA課程はケースを教材として活用するケースメソッド教育を取り入れて、実践的な教育を提供しています。本サイトにおける「ケース」という言葉は、研究用語と授業法用語の両方をカバーしています。「ケース」という言葉は今日、実に多様に使われていますが、この言葉の使われ方の源流には、研究成果物としての「ケース」と、ビジネススクールなどで行われる討議型授業のための資料としての「ケース」のふたつに大別されます。
研究成果物として「ケース」という言葉を用いる場合は、その成果物を得るために用いられた研究方法が「事例研究」であったということが、ここでは重要です。研究者が自ら構築した仮説を検証しようとするとき、実際の出来事を調査し、それを分析することで仮説検証を進めることはよく行われます。その検証プロセスとして書かれた論文や報告書には、研究者の仮説と事例分析のプロセスとを行き来した足跡が記述されます。
一方で、討議型授業のための資料として「ケース」という言葉を用いる場合は、次のような考え方が可能です。授業を担当する講師には「学ばせたいこと」があるわけですが、それは直接教えることはできない類のもので、学習者が自分でつかむしかない性格のものだったとします。このような教育を実行するためには、学ばせたい内容に近づくような討議を行うことで、その討議を通して学んでもらう方法が有効です。しかし、そのためには何かよい道具が必要です。このときに講師は「ケース」を、講師がさせたい討議の誘発装置として活用します。
このサイトでは、ケースを「教材」として使うことをいつも見据えています。ケースを討議型授業の資料として活用するとき、その使途は必然的に「教材」になります。また、事例研究アウトプットとしてのケースはそれ自体が成果物でもありますが、その研究成果を用いた次の知的探求のために、本サイトは事例研究成果物を「教材」としても活用することを提案します。
ケースにはどんな種類がありますか?
ケースの分類については、多くの研究者がそれぞれの独自の分類を試みていますが、本サイトにおけるいちばん大きなくくりのケース分類は、「事例研究ケース」と「討議用ケース」です。また本サイトでは、「事例研究ケース」をさらに「研究ケース」「情報ケース」のふたつに、また「討議用ケース」をさらに「理論適用ケース」「分析ケース」「意思決定ケース」の3つに分けています。
最初に行った大きなくくりでの分類において、「事例研究ケース」と「討議用ケース」の違いは、読んでみればすぐに見分けがつくことでしょう。
「事例研究ケース」とは、そこに記述されている研究プロセスや分析・考察の結果、および調査された情報群に、学術的・情報的な価値があるケースを指します。読者はそれを読むことで研究者の追体験ができ、「なるほどそうか」という読後感が得られるとともに、読者自身の知見が増加します。このタイプのケースには、事実情報そのものと、その事実を理解するための考え方の枠組みが併記されているので、情報収集手段としての活用性に加えて、独習用の教材としても適しています。
一方、「討議用ケース」は知識や情報の授与を目的とせず、読者に「この出来事をどのように理解すればよいのか」「この問題をそのままにしてはおけない」という読後感を抱かせます。ケースから「解くべき問題」を突きつけられた読者は、その解を自分で導き出すべく、その先の知的作業に駆り立てられます。もちろん自分一人で問答しながら解を見いだすこともありますが、仲間と協働しながら解を探る方がより効果的です。そして、そこでの知的交流活動の中心は「討議」という形態で行われることが多くなるでしょう。
少し言い過ぎがあるかもしれませんが、読むことで知的活動が一度完結するのが「事例研究ケース」、読むことで知的活動が新たに始まるのが「討議用ケース」と言えます。
「事例研究ケース」のうちの「研究ケース」は、明確な探求目的をもった事例研究活動のプロセスと結果が記述されたものを指す一方で、「情報ケース」はある組織やそこで起きた出来事を調査した結果得られた、包括的な情報を整理して提示する目的で記述されたものを指します。「情報ケース」ではどちらも同じ「事例研究ケース」のカテゴリーの中で扱っていますが、研究成果物としての色合いが濃く、知的考察活動の足跡が記述されているものを「研究ケース」、それ以外を「情報ケース」というように区別します。どちらも直接的に討議を誘発する作りにはなっておらず、記述内容を読者に伝達することが第一の目的で書かれています。
また「討議用ケース」のうちの3分類は、そのケースによって学習者に課したい知的訓練のタイプによって、「理論適用ケース」「分析ケース」「意思決定ケース」に細分化するものです。
「理論適用ケース」は、そのケースを読むときに援用する理論や分析技法がある程度最初から見えていて、それを用いて事象を理解したり、その使い勝手や活用限界を確認する討議を行ったりするためのケースを指します。
これに対して「分析ケース」は、複雑に入り組んだ問題構造を持つ事象を描き、それをどのように分析し理解すればよいかの意見交換を行うことで、事象への洞察を深めていくためのケースを指します。「分析ケース」という名称になっていますが、教科書にあるような分析ツールをそのまま使って簡単に分析できるような問題を扱うのではなく、いくつかのツールを組み合わせて解いたり、その問題を分析するためのツールを自分で組み立てたりする訓練が「分析ケース」で行われます。
最後の「意思決定ケース」は文字通り、ケースが学習者に最終的に求めているものが意思決定であり、多くの場合は、どの選択肢を選ぶにしても悩ましさから逃れられないような状況が描かれているものを指します。
既存の理論や分析技法を適用することで片付く問題を確実に処理する訓練を「理論適用ケース」で。また、既存の理論や分析技法が簡単には当てはまらない問題に対して、クラスに集う学習者たちの地アタマを駆使して分析を試みる訓練を「分析ケース」で。そして、問題解決のために何らかの意思決定が必要なのだけれども、あるひとつの選択肢を選ぶことよって発生する困難の克服も含めて、熟考して腹をくくる訓練を「意思決定ケース」で学ぶ、という役割分担を想定しています。
ケースはどのような学習者のために作られているのですか?
主に「討議用ケース」を前提にした説明にはなりますが、一般にケースは、理論的探求を重視する学者や研究者よりも、現実に起こっている固有の状況と無縁ではいられない実務家に向けて作られています。その根底には「理論的知識の量的増大」ではなく「実践能力の向上」を目指そうとする教育の方向性への意図があります。このような教育は「事例研究ケース」を次の知的探求のための道具として用いて行うことでも実行可能です。
一般に抽象概念や理論の類のものは、そこに多様な具体的状況を与えても、論理構造の維持が可能です。このような概念、あるいは理論をそのままに学ぶことはとても重要であり、私たちが直面している課題への克服を、このような概念・理論群が下支えしてくれることは間違いありません。
また同様に、個々に実在する事象から導くことのできる知恵を一般化・抽象化する訓練も重要で、そのような知的訓練の成果物として、世の中に優れた理論が生まれます。
しかし、ここで知的活動のベクトルを逆向きにして、抽象から具体に向かう方向を考えると、今度はまた違った性格の能力が求められることに気づくことでしょう。実務家にとっての舞台は「個々の状況」であって、「理論書の世界」でも「統計ソフトの世界」でもありません。つまり、経営の舵取りを任されたX氏がA案とB案のふたつのプランを採択できるとき、理論上、あるいは統計的にはA案が推奨されているとしても、X氏にとってはいま直面している「この場面でのこの課題」をうまく克服することに意味があるのです。理論上はA案が推奨されているから「やはりA案だ」とするのか、統計的にはA案だけれども、目の前にある状況を考慮すると「この状況に限って言えばB案の方が成功の可能性が高まる」と判断するのか、熟慮の末にそれを決めなければなりません。
私たちは日常よく「それはケース・バイ・ケースだ」という言い回しを使いますが、このフレーズを言えば、ある固有の状況下でどうするかは考えなくてもよくなります。しかし、実務家にはそれが許されません。ケース・バイ・ケースのその先に進むための訓練を行いたい人にとって、ケースはとてもありがたい教材になります。
上述した思考訓練は「討議用ケース」のジャンルに属する「意思決定ケース」を用いて行うときにもっとも効果的に進みます。しかし、意思決定の前工程にある「理論理解」「理論適用」「分析」のすべてが実践能力の構成要素になるので、すべてをバランスよく身につけている必要があります。そのためにも多様なタイプのケースに数多く触れておくことは、実践能力を統合的に高める上での重要なポイントになります。