【連載コラム】第3回 学生父母会での一幕
奉職する名古屋商科大学の学生保護者会が先週末にあり、その中で私は名商大が全学で取り組むケースメソッド教育について講話する機会を得た。父母揃っての参加や祖父母も交えての参加も目立つ満席の会場は真剣味に溢れていた。
その席上で私は、少し手の込んだ進行にチャレンジすることにした。それは、「学生に考えさせることはさほど優先せず、何でも教師に気軽に尋ねさせ、教師は明確かつ端的に回答していく『分かりやすい』授業」と、「とにかく学生に考えさせ、場合によっては学生の質問に答える代わりに別の質問を投げかけていくという、必ずしも『分かりやすい』わけではない授業」- 保護者としてはどちらを望むか、という比較検討を促そうと企図した進行である。
米国でのケースメソッド教育の歴史はプロフェッショナル教育にはじまり、最初の3/4世紀くらいは、低年齢の学習(修)者を対象とすることをほとんど想定していなかった。一方のわが国では、中教審答申が能動的学修(アクティブラーニング)を強調しはじめた2012年以降、社会人大学院で用いられるアクティブな学習(修)活動が、大学学部、高校、中学、そして小学校にまで、カスケードをくだり落ちるように急速に下方展開されはじめ、そこにはケースメソッドという筏も一緒に流された。
話を学生保護者会に戻すと、保護者の挙手や頷き、そして表情から、保護者には「分かりやすい」授業への期待も根強くあることが分かった。それはある意味当然のことであり、名古屋商科大学の教育への率直な期待なのでもあろう。しかし、週末の保護者会会場は、そのような立場が多数派というわけではないという事実も突き付けた。「分かりやすい」授業を強く支持した保護者はこの現実に驚き、いくぶん心細くなった様子で、教室が少しざわざわしはじめた。
そして話題は、私が講話のハイライトに据えていた「ケースメソッド授業の教室における強者と弱者」と題したパートに進んでいった。私たちのケースメソッド授業における成績評価では、手を挙げられない学生によい成績を付けづらい。そして、そのような説明は、ケースメソッド教育を正当化もするが、教室にいる授業弱者の排除と紙一重であり、保護者の不安を煽ることにもつながる。不安のない社会生活はなかなか送り難いが、人を積極的に不安にさせるメッセージには愛がないし、第一悪趣味である。
その日、私が強調したのは次のことだった。「私たち教員の多くは、手の挙がらない学生を、手が挙がる学生以上に気にかけている。普段発言しない学生が勇気を出して挙手したとき、私たちはまずそれを見逃さない。そしてビジネススクールの社会人学生といえども、その多くは『話したいことをうまく言葉にできない』『発言の機会を逸した』という苦悩からスタートする。それでも、教室は安全だとやがて分かり、発言することがここで生き残る唯一の術とも分かり、そこには共に学ぶ仲間同士の温かみもあると分かるから、話下手が論客に、一人、また一人と化けていく。その変化は『厳しくも温かい教育訓練の過程』なのであって、弱者の排除とは断じて違うのだ」と。
教育哲学では、「教育には、教育という大義を身にまとった暴力が、少なからず内包されている」という立場を取る論者が多い。しかし、ケースメソッド教育を効果的なものにしようという一意で、私たちは学生に精一杯の予習をさせ、積極的に発言させ、「で、あなたはどうするのか」と問い求め、クラスへの貢献があればきちんと評価すると動機づける。このアプローチは必要ではあるが、十分ではない。討論授業では陽が当たりにくい学生も必ず、そして少なからずいるからである。
この日の保護者アンケートには、「控えめな子へのフォローもあると聞いて安心した」「弱者へのアドバイスもしっかりお願いしたい」という趣旨のコメントが散見された。私はそんなアンケートコメントに触れながら、「竹内先生、甘いよ!」と反論してきそうな何人かの同僚が夢に出てこないことを祈りつつ、ベッドに入ろうとしている。